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2007年1月

いよいよ念願のケープホーンを無事通過しプエルトウイリアムスへ入港
栄えある「ケープホーナー」に!!!
また、ケープホーンへの上陸を果たしアルバトロス記念碑をバックに記念撮影
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軌跡
DHARMA単独世界一周航海日誌   2007年1月             戻る

2007/1/1
<馬場社長から目黒さんの情報>
明けましておめでとうございます。
目黒さんとダーマは、
日本時間の本日1月1日08時無事プエルトウイリアムスのMICALVI Yacht Clubへ舫を取られました。
ご本人は未だ興奮冷めやらぬ様子で、この長かった60日の航海の後にたどり着いた感動を12分間にわたって衛星電話でお話されました。
まずは一安心です。皆様のご支援に大変感謝されているとのこと、お伝えしておきます。

2007/1/1/07:40JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
明けましておめでとうございます。
本船付近は弱いながらも高圧帯に覆われ、風は南西より、10m/s以下。
入港準備等で忙しくされていることと拝察します。入港までの数日はオーバーナイトのワッチで本当にお疲れさまでした。小生も疲れました。明日からお互いゆっくり寝られますね。

JST1月2日2300 JST1400 現地(チリ)時間1100
明けましておめでとうございます。
皆様にとりまして実り多き年でありますように、遠く南の果てより、心からお祈り申し上げます。

前回メールを打ったのが日本時間12月30日の午後一時、以来3日間の空白が生じました。
その間実にいろいろな事がありました。これまでの経過を報告します。

12月30日
0250 ディエゴラミレスの南側を16海里離して通過。一時は南緯57度を越えたが、それより30海里以上南下すると流氷の恐れありとの情報を受け、57度ラインに留まるように注意。帆走から機走に変え、レースを途中棄権したときのような敗北感を味わうが、安全に入港する事の重要性を認識、気持ちを入れ替える。
  この頃より、風、波共に次第に落ち着き(西17m/s)エンジンを停止、ウィンドベーンに切り替えて再び帆走。ドレイク海峡を帆走する喜びを味わう。ここからケープホーンまで後50海里。
1000 ランドフォール。ケープホーンの西側に位置するジョルダン島と思われる。
1200 ケープホーンを視認。何処となくスイスのマッターホルンのようにも見える。次第に近づくケープホーンを見ながらなんともいえぬ虚脱感を覚える。
1500 ケープホーンの東5海里を通過。気温18℃。晴。最高の陽気。風が落ち(5m/s)東に振れる。

ケープホーンを望む

1600 JST12月31日0600 GMT2100 55−55S/66−54W E5m/s 晴 COG90T SOG5kts
  当初ビーグル水道の東端の入口から入る予定だったが、風が東に振れたので島の間を縫って途中からショートカットすることにする。
1900 風が東、北、北西と振れ風速15m/sまで上がる。気象海洋社の馬場社長と電話連絡。天気図では西が吹く気配なしとの事。局地的な気象と判断するが逆風で波悪く、通常5〜6ノットで走れるところが3ノット以下になり夜間のビーグル水道通過は危険と判断。西風に乗り一度東の外洋向かう。
2300 島、暗礁地帯から20海里はなられたところで漂流開始。東への漂流速度2ノット。朝まで仮眠をとる。

12月31日
0700 依然として北西が吹く中、向波の影響を軽減するため機帆走で北北東に向かう。
1000 Nueva島の南端に取り付き、島の南岸に沿って西に向かう。
1100 ビーグル水道の途中の入口、Richmond水道に来る間に風速落ち5m/s。北西から西に振れる。本日中に入港できる事を実感。水道付近の地形は、スコットランドやアイルランドの北部に良くにておりリンクスコースが似合いそう。
1200 風が西南西に振れ風速10m/s。水道通過に絶好の吹き回しとなる。1ノットの上げ潮に乗り艇速6.5ノット。
1800 水道の途中でアルゼンチンの国旗を掲げた小型のフェリーボートとすれ違う。本船に会うのはニュージランドを離れて以来。
1900 ポートウイリアムの入口に到達(日本時間1月1日朝8時、チリ時間12月31日午後9時)航海の途中入港手続きをスペイン語で出来るようにと発音や必要な単語、文章などメモにとり暗誦に努めたが全く役に立たず。
  数回電話をしたがこれはつながらず。無線機での交信は諦め、途中から16チャンネルを通しての呼びかけは総て無視。呼びかけかどうかも解らない。ガイドブックによると、チリの入港手続きは、海軍(アーマーダ)、税関、国際警察のチームで実施と記載されている。著しい違反は入港拒否、国外退去等の記載もある。

今日は日曜日でしかも大晦日の午後9時、明日1月1日は休日。沖合いで錨を打ち、2日間の足止めを覚悟していたが、取り合えず停泊中の小型の巡視艇に接近。波止場に駐車している車の脇でカメラのフラッシュが数度光る。
  近寄ると写真を取っていた係員らしき人物が、停泊を予定しているヨットクラブの方を指差し、そちらに進めと合図する。間もなく巡視艇の脇から、軍用のライフボートが現れ、ヨットクラブに先導する。先程波止場に駐車していた車がダーマの進行に合わせてヨットクラブに向かう海岸道路を走っている。

ヨットクラブに人影はないので、停泊している大型のヨット「アホイ(この呼びかけはハワイで覚えた)」と声をかけると船内から数人飛び出し、あっという間に係留ロープを受け取り横抱きに舫いをとる。直ちに海軍、税関、警察の3人が乗り込み、入港手続き開始。
お互い何を話しているのかチンプンカンプン。時々理解できた単語と筆談を交え30分程で入港書類作成完了。噂には聞いていたがとても親切で好意的。入港まで抱いていた不安があっというまに払拭される。


入港手続き完了

書類作成が終わると車に乗せられ波止場の側にある警察所へ向かう。所長から英語版の書類を渡され記入。ビーグル水道を渡る途中、何度も無線で呼びかけたが応答が無かったとその時知らされる。所長から今後はEメール或いは電話での連絡でも良しとの許可を貰い、1月2日にEメールと電話でのテスト交信を約束し総ての公式な手続き完了。再び車でヨットクラブまで送ってくれた。

ヨットクラブは海軍が運営しており、狭い河口の入口に係留している使い古した上陸用舟艇がヨットクラブハウス。この上陸用舟艇に2列になりヨットが舫いを取っている。ダーマは前列の一番外側で上陸用舟艇から4隻め。内側から2隻目はパタゴニアと南極を周遊する巨大なアルミ製のチャーターヨット「PELAGIC : 運行予定などインターネットで検索可能」。


Micalvi ヨットクラブ

生まれたてのケープホナーに「Congratulation!」と言いながら次々に握手を求めてくる。「いい時についた今夜はNEW YEAR EVE。 クラブでパーティをやるので参加しないか」と誘ってくれる。取り合えづ船内に戻り、自宅と馬場社長に無事入港できた旨電話で連絡。引続きクラブのパーティに参加。その夜は別世界に迷い込んだようだった。

正月休暇にも関われず「無事入港するまで24時間体制でウオッチを続ける。」と言って下さった馬場社長。その言葉に甘え幾度も電話し、適切なアドバイスを戴きました。身の程知らずといわれても仕方が無いような新米の航海者が曲がりなりにもここまで来れてのは頑丈な船を作ってくれた三河ヨットの堀江社長、長期航海に向くようにリグやバラストのデザインを改良してくれたデザイナーの林さん、改めて感謝いたします。

又出航前なもとより、出航後に帰国する度に暖かく向かえたくれ励ましてくれたアルバトロスヨットクラブの皆様、レーザーの東京ベイフリートの皆様、刈谷セーリングの皆様、かっての勤務先である海外石油/ジャパン石油の有志の皆様、母校秋田大学のヨット部の皆様、古き良き友人達、有難う。再会を楽しみにしています。

新しいヨット仲間との歓談、今後の航海に備えての情報入手、散歩がてら町の探索等しながらノンビリ過ごしています。落ち着いたら当地の様子、トピックス等報告します。

Wednesday, January 03, 2007 11:26 AM
<林先生から目黒さんへのメッセージ>
目黒さん、おめでとうございます。
小さなフネで御苦労なさっいる様子を、ときおり拝見しておりました。
ケープホーンは小生にとっても、憧れの地であり、行ってみたい所でした。
まだ可能性が無いわけではありませんが、もう無理かしれないと感じています。
これからの航海にもいろいろな事が起ると思います。
どうぞお体を大切にして下さい。
楽しい航海を祈ります。

2007.01.03.
林 賢之輔

2007年1月5日
今日は1月5日。ポートウイリアムに入港して6日目。時々港に近いPukaskiと言う名の小さな宿で夕食を取ったり、日誌や写真を整理したり、疲れたら昼寝をしたりして過ごしている。もちろん大部分の時間はダーマで少しずつ艇内の整理をしながら次の航海の準備をしている。

ケープホーンは世界中のヨットマンにとり憧れの地、次々に新手のヨットが入港し、短い夏を惜しみながら去っていく。到着した翌日南極・パタゴニアをベースにするクルーザーペラジック(PELAGIC)が10人のゲストを乗せて出航した。次の寄港地はDECEPTION 島(南緯62度58分―西経60度36分)。ゲストといっても皆世界各国から集まったベテランセーラー達、ゲストではあるが重要なクルーでもある。実際誰がクルーで誰がキャップテンなのか見分けがつかない。つかの間の交流ではあったが親しくなったセーラー達を見送る。

其の日の内にアルミニュームのチャーター艇ANTI-PODEが、5〜6名のゲストを乗せて入港した。どちらかというと見送られたり、迎えられたりすることが多かったので、この時とばかり「Wellcome to Puerto Williams」と声をかける。スキッパーらしい、いかにも塩気に満ちた人物が「俺達は、今ケープホーンを回ってきたところだ。お前は何処から来た。」と聞くので、「ニューランド」と答えると、暫く考え込んでから後でゆっくり話したいという。その時は船のデッキやロープ類、塩にまみれオイルスキン等を水洗いし、船上所狭しと乾かしていた。その後散歩がてら町の探索に行っていた。夕方ダーマに戻ると、ANTI-PODEの入港時に甲斐甲斐しく舫を取っていた魅力的なフランス人らしき女性が「先ほどから探していた。クリストフが話したいといっている、都合のよい時で良いから来てほしい。」という。勿論OK、一時間後に訪問することにした。


ANTI-PODE入港

オーナー兼スキッパーのクリストフ(Christophe Auguin)がチリのピスコサワー(地酒カクテル)で歓迎してくれる。
クリストフを入れて総勢7名3組のカップルと一人の老人。この老人、と言っても自分とあまり変わらないようにみえる年頃の人物はクリストフの父親。

マイケル、クリストフ、ベネディクト

プラス クリストフの父&タミオ

尋ねられるままに航海中の出来事等を話す。荒波を避けるため南緯57度線の低気圧の真ん中を走った時の話をすると、クリストフが「自分もレースのとき同じように低気圧の真ん中を帆走した。」という。彼はBOCで2度優勝、96―97年のバンデグローブ(Vende Blobe)でも優勝、世界で最も過酷なレースを総なめにし、ヨット界の最高峰を極めた男であることに初めて気がつく。自分の航海の話などどうでもいい。彼にいろいろな事を訪ねるとゆっくりとかみ締める様に、丁寧に答えてくれる。時々そばにいるガールフレンド兼クルーのベネディクトや周囲が補足する。彼のバンデグローブ優勝を記念してフランスで発行された立派な写真集を見ながら話が進む。ベネディクトが「昨日のNEW YEAR EVEには海の上でスープしか飲んでいない。今日はご馳走を用意するので是非一緒に。」と誘ってくれた。ワインを飲み、新鮮なサラダとチーズ、ラムのステーキ、素晴らしいヨットマン・ウーマンに囲まれて至福の時をすごした。素晴らしい晩餐だった。


クリストフ(BOC/バンディグローブの覇者)

マップを見ながらBOCレースを語る覇者クリストフ

航海中、自分が信頼できる気象予報を毎日入手していることを知り、クリストフは安心したように思えた。数年前彼の親しいベテランヨットマンがダーマと同じぐらいのサイズのヨットで単独マゼラン海峡の東口から大西洋に抜けた直後、風速40m/sの強風に合い遭難したことを淡々と話だした。一週間後にアルゼンチンの海軍がスターンの一部を海面に突き出して漂流しているヨットを発見したが人影は無かったそうだ。

ポートウイリアムに2週間程滞在し、その後ケープタウンに向かうがここにいる間にケープホーンに上陸する事を考えている。と自分の計画を伝えると、単独は難しい、2人いればダーマでも十分可能との事であった。

翌日(1月2日)、マイケルのカルメンが入港した。何時の間にかダーマの直ぐ後ろに係留している。直ぐに探したが見当たらず、其の日はPusaki(宿屋)で夕食をとる事にしていたので、翌朝戻る旨のメーッセージとメモを知り合いに託し町にでた。翌日カルメンを訪ねマイケルと再会。お互い抱き合って無事を祝う。

彼が「随分痩せたな。大変な航海だったようだな。」というのを聞き、不覚にも涙があふれ暫くは言葉が出なかった。

昨夜自分のメモを見て、自分が居そうな場所を2時間ほど尋ね回ったそうだ。又ケープホーンの近くでペラジックとすれ違い20年来の友人であるスキッパーから無線でダーマの安着を知ったとの事。彼は11月26日にワンガレイを出航しているのでダーマが59日間要したのに対し、38日間で走りきっている。28ftと49ftの軽量レーサー(彼はカルメンでメルボルンー大阪のダブルハンドレースに2度参加)との違いの大きさを改めて認識。


ペラジック南極へ

気分が落ち着いてから「短時間で良いから、ケープホーンに上陸したい。ダーマでは難しいので、カルメンで連れて行って欲しい。」と真に勝手な希望を伝える。「希望はかなえてあげたいが簡単な事ではない。未だ着いたばかりなので暫く考えさせてくれ。」とマイケル。その数時間後に「俺は決心した。自分はケープホーンの上陸など全く興味を持っていない。しかしタミオを上陸させることには興味がある。一緒にケープホーンに行こう。タミオが気象情報を入手するなら、それ以外情報は全ておれが集める。」と言ってくれた。

翌日気象海洋の馬場社長にケープホーン上陸の計画を伝え、気象データの送付を依頼。馬場社長より、「悪天候が暫く続き、天候が回復するとき(1月13日以降)は出航する時期になるのでは?」とのコメントを受け取る。早速マイケルに「先々の航海のことを考えるとケープホーン行きを断念する可能性もある。」と伝える。今度はマイケルが自分以上に落胆し、「既に情報を集めを開始し、自分なりの計画を練っている。わずか数日のことではないか、簡単にあきらめるとは何てことだ!」と言い出す。結論として、1月13日までに実現できれば実行。さもなければ1月13日以降ケープタウンに向け出航ということにした。

マイケルが到着した翌日Puskiにマイケルを招待し、上等のワインを準備し二人の無事到着と再会を祝しささやかな晩餐会を催した。Puskiには、バックパッカーや大型ヨットのクルー達が息抜きに滞在している。4人用の備え付けベッドのある部屋が全部で4つ。日本の山小屋風の宿でとても活気がある。ピレネー(スペインとフランスの国境)山系で登山のガイドをしている若いフランス人のカップルが野宿すると言うのを聞き、マイケルはカルメンを宿代わりに提供した。昨日はそのお礼にとフランス人のカップルがカルメンで夕食を作り、なぜか自分も招待された。Puskiには自分の洗濯物をどっさり残してきており、いずれ洗濯物を取りに行かなければならない。

ケープホーン便り

1月6日
1500: マイケルとポートキャプテンの事務所に赴き、ケープホーンに上陸するためも許可と途中数箇所で投錨するための許可を得る。「ダーマ船長は、今日から暫くの間船長ではないな。」とポートキャップテンから冗談を言われる。言葉は十分通じ無いが「何とかしてケープホーンに上陸したいとの、気持ちが伝わっているのが解る。」到着した日に「ケープホーンに上陸したい。日を改めて相談したい。」といったのを覚えているからだ。

1月7日
0800: マイケルのカルメンでポートウイリアムスを出航。風弱く機走。
1400: ケープホーンまで50海里。明け方060にケープホーンに到着する事を想定し、時間を調整しながら交代で仮眠を取る。

1月8日
0600: ケープーホーンまで3海里。
0630: 上陸地点200mに接近。ラバーディンギーを降ろす。多少波がある。転覆に備え、上下つなぎのサバイバルスーツを着てディンギーを漕ぎ出す。


マイケルのカルメンでケープホーンに向かう

左灯台、右アルバトロス記念碑


上陸地点へ向かう

険しい海岸線

0700: 波打ち際で波の周期を5分ほど観察、大きな波がディンギーを岩だらけの岸の奥深くに運んだ瞬間に上陸。上陸用の階段を上がる。沖で待機しているマイケルに携帯のVHF無線電話で連絡しようとして、肝心の無線機を忘れてきた事に気付く。

0730: マイケルと連絡を取るため、急いでアルマダ(チリ海軍)が駐屯する燈台に向かう。若い職員から無線機を借り、9時に上陸地点に戻る事。8:30に無線で再度確認する旨伝える。

0800: 長い間想像していたアルバトロスの記念碑に向かう。本日の上陸者は自分一人だけ。沖にカルメンが小さく見える。アルバトロス記念碑に続く長い階段をゆっくりと上る。祭壇に向かうような不思議な感覚を覚える。数箇所で写真を撮っている間に雨が降ってきた。早く戻らなければならない、時化始めるとカルメンに戻るのが難しくなる。


アルバトロス記念碑、自分には祭壇に見える

背景が傑作を生み出す


アルバトロス記念碑で座禅を組む

この海で無くなった人々は私の羽に乗って永久に生きつづける


ケープホーンの山頂を望む

自然が一杯、野鳥の親子

0830: 燈台に戻り、絵葉書他買い物をし、パスポートに上陸の印鑑を貰い、訪問帳にサインする。その後無線機でマイケルに予定通り上陸地点に戻る旨連絡。


厚い訪問者記帳にサイン

08.01.07 Tamio Meguro Japan

0900: カルメンに戻り、ラバーディンギーを回収。マイケルは目的を果たしホッとした表情。
その夜はポートウイリアムスの20海里手前、プエルト・トロに投錨し2人で乾杯。


満ち足りた表情

マイケルも一安心


さらばケープホーン


飛び出す時のアルバトロス

着水するときのアルバトロス

1月9日
1500: ポートウイリアムス入港。クリストフやベネディクトを始め、ミカルビヨットクラブに係留しているヨットは殆どマイケルと自分がケープホーンに向かったことを知っている。「Well Done!」とか「Congraturation!」とか皆の祝福の言葉が素直に嬉しい。


ミカルビヨットクラブ

出航準備中


カナダで逢ったVISION(NZ)が入港

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目黒さんのケープホーン通過を記念して関連の画像をWeb Siteから集めてみました→ 画像集
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xxxxxxxxxxxxxx 以下ケープ廻航に対する動機と回想 xxxxxxxxxxxxxxxxx

人種・文化を問わず古来人々は聖地を求めて旅をしてきた。聖地への旅は既成の宗教、教義の実践と存在しているようだが、元来、自然に対する畏敬から、それに近づこうとする好奇心、人類が人間に進化する過程で蓄積され、古い能皮組み込まれたDNAに起因しているように思われる。

理由はともかく、20歳台に自作ヨットで日本一周をして以来、一生に一度は自分のヨットでケープホーンを訪れてみたいと思うようになった。ケープホーンが自分にとっての聖地であるかのように。昨年12月29日にケープホーンを廻りポートウイリアムスに入港した後、1月8日に上陸を果たすことができた。予定より1年遅れたが、ケープホーンを訪れる事が今回の航海の目的であった。その結果としての世界一周である。帰国まで、未だ先は長いが、安全な航海と新たな出会いを楽しみながら無事帰国することができれば本望である。

ヨットを始めたのは大学(秋田大学鉱山学部)のヨット部に入部した時である。入学式の直前、初めて秋田を訪れ、まずヨット部の部室を覗いた。塩気に満ちた年配の部員から「これから合宿に入るが参加しないか?」と誘われ、そのままゴールデンウィークが終わるまで合宿に参加した。誘ってくれたのが、当時5期生だった堀江先輩(現在三河ヨット研究所を主宰)。堀江先輩は、翌年卒業したが、それ以降もお付き合いを頂き、ヨットに関するあらゆる面で薫陶を受けた。当時三期生だった三村先輩は生粋の秋田人。中学生の時に見よう見まねで小さな小さなヨットを自作したほどのヨットが好きだった。しばしば三村先輩のキャビンに似せた小さな部屋で、夜遅くまで堀江先輩と3人でヨットへの思いを語り合ったのが懐かしい。堀江先輩の履歴書には秋田大学鉱山学部ヨット課とあるが、正しくヨットに始まりヨットに終わった4年間の大学生活であった。
結成後間もないヨット部で、使用艇は、総て部員の手作りだった。偶然ではあったが、ヨットに乗るためにヨットを作る事から始めたのは自分のヨットライフを幅広くしてくれた。間もなく設計図を手に入れ、クラブ活動と学業の傍ら、自分のヨットを作り始めたのは、極めて自然な成り行きだった。

卒業と同時に完成した自作艇で日本一周をした後、遅ればせながら真面目に将来の人生設計をしなければならない時期にきていた。自分が何をしたいのか?何が出来るのか?振り返ると一番苦しんだ時期だった。アカデミックスには興味を持てなかった。地元のジーンズショップの雇われ社長を続けながら、雪国に育ち子供の頃から慣れ親しんだスキーとヨットを組み合わせた小さなビジネスで身を立てる事を考えたり、趣味のビジネスでは金銭的な苦労は免れないと思い、大型トラックの免許を取得したりした。

何とか糊口を凌ぐ自信はあったが、その前に戦後の復興、そして高度成長を支えた日本の企業文化に一度は触れてみたいと思った。既成の組織の中で自分がどの程度通用するのかを一度は確かめたかった。そのため、母校の修士課程の石油講座で2年勉強し企業人候補生として自分を作り直すことにした。石油不足(米国による禁輸)が、日本を第二次大戦に追い込んだ直接原因であった事は明らかである。自分が貢献できるかどうかをテストするのに、これ以上の舞台は無いし、遣り甲斐があると思った。

石油開発を志したもう一つの理由は、将来の長期航海のため、海外生活に親しむことにもあった。修士課程に進んだ年に、日本は戦後未曾有のオイルショックに見舞われた。それを契機に日本の海外での自主開発原油に対する動きは活発になり、多くの石油開発会社が産声を挙げた。以後30年間、中近東を中心に、油田の開発計画策定を主要業務とし、勤務期間の半分以上を海外で過ごすことになった。

50歳台に入ったころから、燻り続けていたケープホーンへの旅が端なる夢で終わるのではないだろうかと、焦り始めてきた。55歳になった年、自分を含む団塊世代に早期退職の道が巡ってきた。上司に退職したい旨申し入れたが、もう数年我慢して欲しいとの強い要望があった。事実入社以来、数多くのプロジェクトに参加し、実績を積んでいたし、幹部候補生として要職も与えられていた。又退職年齢も次第に繰り上げられていた。

其の頃は実務の傍ら、環境破壊の元凶と目されている石油開発と環境保全をどのように折り合いをつけることが出来るかを考え続けていた。辿り付いた結論は発電所等から排出される炭酸ガスを高圧で油田に圧入し、炭酸ガスを地下に隔離すると同時に原油の回収率を飛躍的に向上させるプロジェクトであった。炭酸ガスを油田に圧入する技術は北米で50年以上の実績があったが、油田の近くに純良な炭酸ガスを産出する地域に限られたいた。地球温暖化対策の一環として、油田に対する炭酸ガス圧入プロジェクトは、未だ実施されていなかった。石油メジャーさえ手を染めていない新分野だった。

その頃中東の産油国では、原油の回収率を向上させるため市場価値の高い天然ガスを圧入していた。主体的なプロジェクトの推進者として、国内外の関連企業と連携しプロジェクトの青写真を作り上げ、パイロットプラントの概念設計も完成させた。パイロットプラントでも一千億円を越える大プロジェクトだった。リスクはあったが、見返りも大きかった。恐らく今後発見が不可能な超巨大油田の発見に匹敵する原油回収量を期待できた。考えられる準備を総て整え、更に広範な関係者の理解を得るため、プロジェクトのコンセプトを業界誌に発表したり、講演も行った。後は京都議定書の発行を待つばかりだった。
民間会社としてプロジェクトを軌道に乗せるには、隔離した炭酸ガスを市場で売買する必要があった。しかし排出権取引を軌道に乗せるには、京都議定書の国際的な承認が不可欠であった。幸か不幸が京都議定書の批准はロシアが態度を保留したため遅れ、従ってプロジェクトの開始も遅れた。

その間に再び早期退職に応募する機会が巡ってきた。受付開始の前日休暇を取り、退職を希望する旨書面に認め郵送した。同時に航海の準備を本格的に開始した。それから3年が経つ。出航してから1年半が過ぎた。随分昔のことのようにも思える。

2007年1月10日
馬場様
当方は1月7日0830マイケルのカルメンで出航。翌日0600にケープホーンに到着。
マイケルが沖待ちしている間に単独手漕ぎのラバーディンギーで上陸、灯台を守るチリ海軍のオフィサーに表敬訪問し、記念のスタンプをパスポートに押印し記念の証明書(US$10)を創ってもらいました。その後アルバトロスを模した記念碑を訪れ付近を一時間ほど散策。
0830に再びディンギーでカルメンに戻りました。帰りはポートウイリアムスの南東25マイルに位置するプエルト・トロ(PUERTO TORO)に投錨。一晩休養を取り、先程(現地時間1月9日1500)無事ポートウイリアムスに戻りました。

明日から本格的に出航の準備を開始し、1月13日以降何時でも出れるようにしておきます。

目黒拝

2007/1/13/09:00JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
週間予報には発表日によって日替わりが見られ、予報に不安定さが見られます。
1/15以降の海況については、明日1/14の解析を見て判断しましょう。
WDMも明日朝に添付します。

2007/1/16/10:30JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
ケープからカリブへの目的地変更了解しました。
赤道の南までのおおまかなウエーポイントは下記の通りです。
40S-55W
40W-45W
30S-25W
5S-30W
当面出港後沿岸部〜沖合いを40Sまで北上。40S以北には強い南下流(ブラジル海流)がありますので、ここから一度東進して45Wへ。風の状態を見ながら北東進して30Sラインへ。この辺りから偏東風域に入ることが出来れば、北北西に進路をとって赤道へと向かってください。
現在ドレーク付近を次々と低気圧が通過しています。当面最後の低気圧がフォークランドの南東海上に出るのが1/19/00GMT。
本船現地時間の1/18早朝として、例の狭い海峡までは南西風がやや強いかもしれません。海峡通過後はフェゴ島の影で波高も収まる見込みです。
1/20GMT以降風は10m/s前後まで弱まりますが、2日ほど北の風が続き、その後北西よりとなりますので、沿岸部を真っ直ぐ北上するのは難しく、北東よりのコースとなるでしょう。波は3m前後。
昨年来南半球では海水温が平年に比べて数度も高く(温暖化?)、このため大気が安定せず低気圧が頻繁に発生、発達しています。ドレークでの時化の長期化もこれに起因しているものと思われます。
偏西風域を航行するケープ往きからカリブ往きへの変更は、賢明な選択かもしれません。
勝負は30Sまでです。がんばりましょう!!

2007年1月16日
出航のタイミングとして1月18日朝を考えていますが、航路については以下の方針で対処したいと考えています。
1)「出航直後
Tiera Del Fuego と Isla De Los Estadosの間(水道)を通るか、IDLEの東を廻るか?
昨日現地で2年間チャーター業務を続けているクリストフと航路について話し合った際、当該水道は幅が広く、水道の真ん中を通過する限り、又逆風で無い限りは、潮があっても問題ないとの事。従って状況が許す限り水道を抜ける。
2)フォークランド 予定通り水道を抜ける事が出来れば、これまた状況が許す限り、規定方針通りフォークランドの西を抜ける。
3)カリブ(バルバドス又はトリニダッド)へ直行。 ケープホーンに上陸した事で、出航のタイミングを失い、10日ほどの遅れを生じた。ポートウイリアムスに到着した直後は2ヶ月に及ぶ航海の疲れから、第4レグでの途中寄港(ケープタウン)を考えた。しかし一度寄港すると出入港の手続き、出航のタイミングの調整等で手間取る事が予想される。いざと言う場合に備え、ケープタウン入港を視野に入れながら、初期の計画通りカリブ海に直行する。

コロコロと方針を変えて申し訳有りませんが上記に付きご検討お願いします。本件に付き後ほど電話いたします。

近況;JST1月16日0900 GMT0000 チリ時間1月15日2100
数日までこれ以上船を舫うのが困難なほど混雑していたが、ここ2日の間に10艇に及ぶヨットがパタゴニア、南極などを目指して出航していった。当地にきてから最も親しくしていたAnti−Podeのクリストフ・ベネディクトのカップルも新たなゲストを乗せ、ケープホーンに向け今朝出航した。ケープホーンへ上陸したいという自分の夢を実現させてくれたマイケルと彼の愛艇カルメンも今日出航手続きを終え、明日早朝出航する予定。僅か2週間の間にダーマが一番の長期逗留艇となっている。

2007/1/17/09:00JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
ドレークからフォークランド近海の海況にようやく明るい兆しが見えてきました。本船出港予定日の1/18(現地時間)以降、風は収まりはじめます。次回のドレークへの低気圧接近は1/25GMT以降。それまでには本船もかなり北上されている事と思います。
出港時から3日ほどは南よりの風、フォークランド近海では一時弱風となることも考えられます。その後高気圧の通過で北東〜北西へと風が回ったのち、西よりの順風が吹くようになります。
詳細は添付のWDMを参照してください。
予報に大きな変更はありませんが、海峡付近の海況の回復はやや遅れ、現地時間の1/18夕刻頃からとなる可能性があります。1/20以降フォークランド近海には西から高気圧が張り出すようになり、風の弱い状況がしばらく続きます。この海況をどう抜けるかは、後日ご連絡します。まずは無事海峡を抜けることを最優先され、場合によっては、南風が弱まるまで、島影にて漂泊されることも選択肢として考慮してください。
本日のご連絡は携帯に願います。

JST1月18日1300 GMT0400 現地チリ時間0100
慌しさが過ぎ、漸く静かな時間が訪れた。午後3時ポートキャプテン事務所を訪れ出航の手続きをした。最終手続きは現場で調査をする事が建前なので午後8時に2人の係官が來船し5分で完了。
昨日・今日と強い西風が吹き、本日港は出入港禁止となっている。出航手続きを申し入れた際、風が強いので見合わせた方が良いのではとの忠告があったが、明日以降気候が安定すると説明し了解を得る。

入港以来親しくしていたヨットが去り、少しさびしくなったが、次々に新手が現れる。今までソロセーラーは自分とマイケルだけだったが、三日前にINCANTATION(50ft)のデビッド(カナダ人)とドイツから来たピーター(43ftの鉄鋼船)の2人のソロセーラーが加わり4人集まって時々酒盛りをする。

又オーストラリアからきたコミットメント(60ftのチャーター艇)とも親しく付き合っている。先程コミットメントから戻り、クラブのバーにより、バーテンのフランシスコと相談して最も目立つ所にサインした「刈谷セーリングクラブ」のペナントを貼り付けてきた。
出航準備は整ったので、明日から当分水上生活者となる。

2007/1/19/09:15JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
フォークランド近海の海況も、1/19/12GMT以降穏やかとなる見込み。
ただし、高気圧が同海域の北方から南へ張り出すため、1/20-1/22の3日間、フォークランド西方海域は北〜北東の風となる可能性が高いと思われ、このままではフォークランドの西を北上する事は難しいので、同島の南岸を東進され、島をかわしてから北東進されることをお勧めします。
フォークランドの南および東側ではおおむね西よりの風で10m/s前後の順風が期待できます。

2007/1/19/09:15JST
<馬場社長から目黒さんの情報>
目黒さんの「ダーマ」は日本時間の1/19/08:00にプエルトウイリアムスを出港されました。
現在はまだ西よりの風が10-15m/s吹いています。このあと20マイル先のフェゴ島東端の海峡を機帆走で抜けた後、高気圧からの北よりの風を避けるため、一旦フォークランドの南沖を通り、同島東沖から北上する予定です。

2007/1/20/08:15JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
1/24-25にかけてフォークランドの北47S-45S付近を低気圧が通過する可能性があり、本船の航路付近も一時東よりの風が強まる(10-15m/s)可能性があります。これ以外には当面海況を悪化させるものは予想されていません。

2007/1/21/08:30JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
フォークランドの北方に中心を持つ高気圧はゆっくりと東へ移動中。
その後低気圧がアルゼンチン沖に発生しますが、本日の予想ではゆっくりと南下。
フォークランド近海は、1/23GMTから東よりの風がやや強まり、1/24GMTを中心に一時15m/s前後が吹く見込み。
1/25GMT以降北高南低で西よりの風10m/s前後に変わる見込み。
ポートスタンレイへの入港は早めに、1/23GMT中にされることをお勧めします。

JST1月20日060 GMT1月19日2100 船内時間1800
(当分チリ時間を船内時間とします。予定地のトリニダッドもチリと略同じ経度。)

馬場さま
昨日電話にて打ち合わせた結果に基づき東進を試みましたが、この海域は強い北流(2−3kts)があります。現在西風が4m/s前後と弱いため、東進しても2kts程度です。一方北上すると潮流が新たな風をもたらしアビームで5〜7ktsの艇足が出ます。肌で感じる風速は精々5m/s前後です。この状態が何時まで続くか不明ですが、当面北上を続け風が北に廻った段階で東進します。

出航以来の近況以下の通りです。

JST1月20日060 GMT1月19日2100 船内時間1800
54−07S/63−32W COG 00T SOG6.5kts(2ノットの北流) W5m/s 晴 15℃ 1008hPa

昨日080氷雨の中、18日間滞在したポートウイリアムスを出航。朝6時にマイケルに舫いを取ってもらい狭い停泊地から一度出ようとしたが、入口に係留している船が通路を長い舫いロープで塞いでいる事に気がつき、あわてて引き返すドタバタがあり多少出航が遅れた。時々15m/sを越える突風と雨。ビーグル水道の東出口に出たのが夕方7時。出航の時は何時も緊張する。とりわけ隘路の多いビーグル水道はとりわけ緊張する。二日間荒天が続き付近の山々を雪化粧。視界が悪く直に霧の彼方に消えてしまう。

ビーグル水道を抜け、広い水域にでて一安心した所で椿事が起こった。いつものように船内入口所に座って、何気なく辺りを見回すと右舷20mの所に大きな鯨が浮上している。灰色のような茶色のような、長い大きな背中だけが見える。しかもこちらに向かっている。慌ててウインドベーンを外し舵を切るが間に合わずキール付近に接触。舵を切っていたので衝撃は前回ほどではなかったが、脳天に響くような重い音がした。
直に離れたので、直ちにエンジンを回し、ビルジとキールのボルトをチェック。この時又衝突した。同じ鯨なのか、別な鯨なのかは不明。デッキに飛び出したが視認することは出来なかった。北太平洋で多くの鯨を見たが浮上する時大きなブロウが響く。浮上している時間は極めて短い。今回見た鯨は背中を一部出した状態でゆっくりと移動していた。こちらが舵を切ろうとした瞬間姿が見えなくなったので衝突は避けられると思ったのだが、沈む速度もゆったりしているようだ。幸い船のダメージは無かった。
2度目の衝突が気になり暫くエンジンを回していたがきりが無いので停止。そのまま西風に乗って、東進を続け零時フエゴ島とエスタドス島の間にある潮流の強い海峡に入るため北上。海流は常時北に向かって流れているが3〜4ノットはある。GPSを頼りに20海里ある海峡を通過したのが朝3時。初めて大西洋にでる。広い海域に出て、西風が10m/s前後に安定しているのを確かめ、防寒衣類を着たまま狭いベッドに潜り込む。長い一日が終わり、トリニダッドまでの長い航海が始まった。

目が覚めると素晴らしい快晴。昨年暮れ、ケープホーンのアプローチを開始して以来、昨日まで一度も快晴といえる天候はなかった。朝の内は風の10m/sあり、快適なセーリングを続けながら東進。昼には風が落ち、波だけが残る嫌な状態。セールを下ろし、濡れた衣類を乾かし、船内の漏水状態の詳細チェック。衝突で気になっていたキールも問題なく、安心して航海を続けらる事を確認した。夕方近く西風が徐々に安定、現在北上中。ここからマゼラン海峡に東の入口まで200海里。フォークランド島の西南端まで130海里。

2007/1/22/09:45JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
明日1/23GMTから1/25にかけて、フォークランド近海は北方を通過する(南下から東進に予報が変更)低気圧の影響で、1/24GMTをピークに一時10-15m/sの東よりの風となります。
この低気圧は東進しながら衰弱し、1/26GMT以降フォークランドの東で高気圧が膨らむ見込みです。風は北後西より。
次の低気圧は1/29GMT頃、フェゴ島付近から東進してくる見込みで、フォークランド近海は北よりの風がやや強まるでしょう。
ポートスタンレー出港のタイミングは、1/29GMTの低気圧がフォークランドの南を抜け、風が南に変わる1/31GMT頃を予定してください。

JST1月23日0600 GMT1月22日2100 フォークランド時間1800(チリ時間と同じ)
51−41S/57−51W (フォークランド東島の北東部にあるポートスタンレイの町の中心部にあるボートハウスの浮き桟橋の位置)曇り 15℃ 1008hPa

昨日夕方から微風・無風・軽風そして濃霧の中を機走。速度を調整しながら今朝6時ポートスタンレイの港口の東側6海里に到着。8時が満潮だったため、それまでに入港しようと深い霧の中をGPSとRADARを頼りに慎重に進む。5海里ほど進むが、あまりにも視界が悪く(50m前後)危険を感じたので、入港を中止し引き返す。
プエルトウイリアムスでもそうだったが、出入港のときは必ずイルカが現れ船の前後左右をはしゃぎまわる。港口で船を漂流させながら2時間ほどイルカを眺めていた。何時までも霧が晴れないので、チャートを良く調べ、GPSだけを頼りに、意を決して入港まで10海里の道のりに再挑戦。
5海里まで近づいたところで霧の中から突然貨物船が現れる。その頃から霧が少しずつ薄くなる。入港まで30分の間に3隻の貨物船とすれ違う。港湾局、税関との連絡も取れ、彼らの指示に従い。11時に町の中心部にあるパブリックジェティに舫いを取る。間もなく税関の職員が一人で現れ手続きはあっけなく完了。

パブリックジェティの真ん前がジェティビジターズセンター。町のことはここに勤務している年配の女性に聞くと何でも直に教えてくれる。コインランドリーの場所を尋ねたら、「コインランドリーは無いが洗濯やさんが船まで洗濯物を取りに来てくれる。」と答えその場で洗濯やさんに電話して費用を尋ね、30分後には洗濯やさんが洗濯物をとりに来た。費用は1kgで2ポンドといっていたような気がする。
ポートスタンレイの町並みは小奇麗に整備され、色とりどりの住宅や店舗が小高い丘の上に並んでいる。おもちゃの国を思い起こさせる。港に入って町並みを見た瞬間「来て良かったな。」と思った。日本にいた時から、寄港したい町のひとつであったが、寄港する予定は無かった。風の具合、潮の具合、気象予想などが総てこの地にDHARMAを呼び寄せたように思える。

入港前から税関の職員に言われていたが、明日大型クルージング(一隻に2千人程の乗客を乗せているらしい。)が4隻入港し、パブリックジェティは臨時の税関となる。乗客を運ぶボートがジェティを占拠するのでその間立ち退かなくてはならない。ジェティにはダーマ以外にスイス国旗を掲げたヨットが一隻いるだけ。
言葉を交わす間もなく、彼らは何処か別の所へそそくさと引っ越して行った。こちらも落ち着き先を探さなくてはならない。ビジターズセンターのおばさんのアドバイスに従い、100mほど離れた所にあるボートハウスを訪ね、一隻しか係留できない造りかけのポンツーンを一週間(28英ポンド。1英ポンド=2.2米ドル)借りる事にした。
一時間前に船を移動させ、やっと落ち着いた所。現在メールを書きながら、船の床板をすべて外し、鯨と衝突した結果、キールのボルトから漏れが生じたかどうか再チェックしている。明日までキールを止めているボルトが乾燥していれば問題はない筈。此れから近くのパブでビールを飲み早く寝る予定。

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目黒さんのポートスタンレー寄港を記念して関連の画像をWeb Siteから集めてみました→ 画像集
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2007/1/23/09:10JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
ポートスタンレイへの無事の入港おめでとうございます。
天候の方は、1/24GMTを中心に島の北を低気圧が通過し、東よりが10m/sオーバーと強まります。1/25-1/29は北後西よりで10m/sまで。
次の低気圧の接近は1/30GMT頃と前回の予想より遅れ気味。低気圧は島の南を通過する見込みで、1/30/12GMT頃から同島近海は次第に北西風が強くなる可能性があります。
出港を1/29GMTまでにするか、次の低気圧をやり過ごしてから(2/1頃)にするか。1/27GMTに最新情報をお送りしますので、その時点で御検討願います。

JST1月24日0900 GMT0000 現地時間1月23日2100
予想通り風が東に回り、スタンレイー港にも強い東風が吹き込んでいる。其のため4隻入港が予定された大型のクルージングシップの入港が2隻となっている。それでも小さな町に4千人近い乗客が入れ替わり立ち代り押し寄せている。
町の中心部を走る海岸道路から僅か50mほど離れた所に係留しているダーマは、ヨット好きの乗客が目を引く格好の引き寄せパンダの役目をになっている。船窓から見ると海岸通りを行きかう観光客がダーマの写真を取っているのが見える。大きなユニオンジャックと日章旗を掲げているので目立つ事は間違いない。
クルージング客の呼びかけに応じひとしきり会話を楽しむ。アムステルダムの近くのハーバーにスワン40を係留している夫婦で船名を「クワドロ」といっていた。オランダにきたら歓迎するので是非立ち寄って欲しいといい数枚の写真を撮っていった。彼らを皮切りにドイツ人の観光客も数人訪問していった。

話は全く変わるが、今日気が付いた事がある。ニュージランドを出てから3ヶ月近くなるが、その間寒さ、塩気、湿気などで手先、とりわけ爪の根元にひび割れができ、油断していると直に化膿する。これを避けるため抗生物質を服用する頻度が増えている。又指先が干した大根やきゅうりの様に次第に萎み、最近は僅かではあるが痺れを感ずるようになってきた。脱水症状かと思い水分をとっても状況に変化は無い。
昨夜近くのホテルで、血の滴るような特大のステーキを食べた。十分睡眠を取り、今朝目覚めると痺れの度合い意が少ない。又手先も未だ完全ではないが、以前のようにふっくらとしている。自然の不思議さを目の当たりにしているような思いがする。多くの森林が伐採され、自然が従来の保水力を失い、その結果災害が増えている。人間の体も十分な栄養補給を怠ると保水力が低下するように思う。

今日はキールの取り付けボルトのワッシャーの周りの余分なシール剤を取り除き、更にアセトンで綺麗にふき取った。引続き乾燥させてる。6本のボルトの内、真ん中の一本から漏水と言うほどではないが、水が沁み出ている。トンガで座礁した時、別なボルトで似たような滲み出しが在った。その時は滲みだしている箇所にエポキシ系の水中パテを擦りこんだら水漏れが止まった。ニュージランドで陸揚げし調べたが外部の損傷は皆無であった。その後随分時化られたが特に問題にはなっていない。もう一日乾燥させた後、水中パテを充填することにしている。いずれにしても、ここで修理はできないので、今後の寄港地、カリブ諸島或いは米国東海岸の適当なところで陸揚げし詳細なチェックをする予定。

キールを調べた後、町に出た。保険会社を訪ね、散髪、町営プールでシャワーを浴び、写真を現像、見晴らしの良いホテルのレストランでコーヒーを飲みながら手紙を数通認め、夕食をとり戻ったところ。

2007/1/25/09:10JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
1/24/09GMT付けのメール受信しました。
メールシステムをチェックした結果は特に問題ないとのこと。時折ある原因不明の障害の一つと考えた方が良さそうです。電話よりメールの方が強い電波を必要とするようです。
プリペイド500分を追加した結果、残時間は約900分あることを確認していますので御安心ください。
天候は今日1/24(現地時間)以降1/28までおおむね良好ですが、1/29以降フォークランドの南を低気圧が短周期で通過するため、2/1までは北西〜西よりの風が強く、海上も波が高い状態が続きます。2/2以降は明日あるいは1/27(日本時間)に分かると思います。

JST1月25日0600 GMT
フォークランドは、ケープホーンを越えて本大西洋と太平洋を結ぶ基幹航路に位置している。そのためパナマ運河が開通するまで、重要な補給基地として栄えていた。過去にケープホーン通過中時化に会い、傷つきながらもやっと辿り着いた船がこの港で廃棄されている。港の中や港湾入口に現在でもその残骸が見られる。現在2600人いる住民は殆どが英国系。1982年のフォークランド紛争が終結して以来、人口が1000人増加したそうだ。スタンレーの町にその形跡は全く無いが、一般市民のほかに英国軍の駐留部隊が2000人駐屯している。到着以来3日間、毎晩場所を変えながら、近くのホテルやレストランで食事をしている。ウェイターやウエイトレスはインド系が多い。彼らはここ10年ぐらいの間にセントへレナ島(ナポレオンが流刑された島。英国領。)から移住している。かつてインドが東インドと呼ばれていた頃、東インド会社の船で英国領のあちこちの島々で働いていたインド系の子孫達である。

昨夜夕食を近くのレストランで摂った。ウエイターが気をきかせたのかどうか、一人で食事をしている旅人らしい中年の男性の隣の席を用意してくれた。どちらからともなく話しかけ始めた。英国人である彼(チャールズ・ロレンス)は、1982年の紛争時に従軍記者として戦争に参加していたそうだ。現在Dairy−Mailの記者としてニューヨークに住んでいるが、その後のフォークランドの様子を記事にするため一週間の予定で島を再訪問している。彼が泊まっているホテルの経営者(リチャード)が、ヨットマン。最近カリブ海(トリニダッド)でヨットを購入し、現在はブラジルにおいている。近々ブラジルから廻航する予定。また英国から世界一周途中のロジャーが港の東側に船を係留している。2人のヨットマンはダーマの船長(すなわち自分)に会いたがっている。などなど話してくれ、電話番号を教えてくれた。

今朝遅い時間(10時頃)まで寝ていると船をノックする音がする。ポンツーンに30台の女性がいる。こちらから「サリー?」と訪ねるとイエスと答える。サリーは、ハワイヨットクラブで世話になったノースセールに勤務するマンチの娘である。ハワイを出る時「フォークランドに娘夫婦がいるので必ず寄ってくれ。」と何度も念を押された。ニュージランドにいた時にも「フォークランドに着くのは何時か?」とメールが来ている。その時は予定を一年間遅らせたばかりだった。とにかく偶々スタンレイーに寄港し約束を果たす事ができた。今夜は彼ら夫婦と「UPHILL−GOOSE:一番古く格式のあるホテルの名前。到着して最初の晩に食事をした所」で夕食を摂る事にしている。

サリーが去って間もなく今度は2人組の男性が訪ねてきた。リチャードとロジャーである。「何か手伝う事があれば遠慮なく言ってくれ。」との事で、明日、2本の20リットル容器にディーゼルの補給するのを手伝ってもらう事にした。その後、レストランで昼食を取りながらの情報交換を予定している。彼らはカリブ海に長くいたので、自分が必要な情報を色々持っているようだ。

2007/1/26/10:25JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
フォークランドの北東方に停滞している高気圧はこれからゆっくりと東へ移動します。この高気圧の東への移動後は、ドーレークからフォークランドの南を東進する低気圧が出てくる見込みです。
海上は1/28GMTまでは10m/s以下の北西〜西よりの風ですが、1/29GMT以降徐々に風が上がり始め、1/30GMT以降は10m/sオーバー。2/1-2/2GMTは40S付近まで15m/s以上の南西風が吹き時化となる見込みです。
この時化が何時まで続くかの予想は難しい所です。相次いでドレークを通過する低気圧が出てくれば、時化も長引く可能性があります。

JST1月27日0600 GMT 2100 フォークランド時間1800
昨夜はハワイで会ったマンチのお嬢さんサリー(セントへレナ生まれ、4年半前に当地に移住)と彼のボーイフレンド・ダスティンと近くのアップランドグウスホテルのレストランで食事。サリーが2人、ダスティンが3人合わせて5人の子供を育てている。サリーがここへ来た理由は教育環境が良いからとの事。ダスティンは19年前両親と共にポーツマスから移住。現在は独立して建設業を営んでいる。何れ英国でヨットを買い求め、フォークランドまで航海する予定。彼らから多くの質問や、アドバイスを求められる。

其の夜は比較的早く切り上げた。キールのボルトから僅かではあるがし滲み出しがあり気になっていた。エポキシの水中パテを使い、漏水部に丁寧に擦り込んでいるのだが、パテの間からにじみ出てくる。少しずつパテの重ね塗りをしながら4度トライした。漏水量は減っているがパテとパテの間からの滲みが完全には止まらない。水中パテに見切りをつけ、食事に行く直前、エポキシのレジンとガラス繊維でやや本格的な補修をしたので、その結果を確かめたかった。それでも数時間で1−2滴の滲み出しがあった。その後レジンを使い、同じ方法で2回シールし今日の午後やっと100%漏水が止まった。

朝10時、約束どおりリチャードがやってきた。彼の車にデーゼルの空容器を積み、ロジャーの船に行き、ひとしきり航海談義。ロジャーは根っからの船乗りで、若いときは商船で働いてしたそうだ。その後ヨットスクールの講師やチャーター艇のスキッパーで身を立て、4年前から長期航海に出た。北極海には何度も行っているが、南半球は初めてとの事。今晩はロジャーの家に招待されている。

明日、飲料水をタンクに入れ出航準備は完了。後は風次第。出航手続きを行った後、24時間以内に港を離れるのがここのルールとなっている。

2007/1/27/09:05JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
今後一週間の気圧配置の流れからみて、2/3LT頃が出航のタイミングと思われます。
日本は今日は1/27土曜日。1/29月曜日に詳しくお伝えします。

2007/1/29/09:15JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
フォークランド付近を短い周期で低気圧が通過する予想は変わりません。
特に1/31/12GMT頃に南を通過する低気圧は、北西側で高波高域を伴い、北は40S付近まで時化となる可能性があります。
仮にこの低気圧がやってくる前に出港されたとしても、艇速からみて、上記高波高域を避けることは難しいと予想されます。時化は2/3GMTまで続きます。
その後からも低気圧がやってきますが、規模は小さい見込みで、出港予定を現地時間2/3朝でご検討ください。

JST1月30日0600 GMT2100 現地時間1月29日1800
現地時間2月3日早朝出航の予定で準備をすすめます。

昨日は日が差し、穏やかないい天気だったが、今日は朝から北西風が吹き荒れリギンをゆすぶる。
港内でも白波が立ち、っている。 今朝0900、約束通り、リチャードが迎えに来て、数軒の店でショッピング。リチャードは朝6時に仕事を始め、本日必要な仕事の大部分は片付けたという。彼の家でコーヒーを飲み昼前に船に戻る。リギンのセールの擦れ止めに、先ほど購入した細いパイプを被せていると、カナダ人エイドリアンが遊びに来た。

先日レストランで食事を終え、タバコを吸いに外へ出た時、彼が日本語で「始めまして」と話しかけてきた。彼は元々ルーマニア人で、キューバ出張中にカナダに亡命したという。カナダで博士号をとり、現在カナダ外務省の海外援助の仕事をしている。ブラジル人の日系3世の奥さんをサンパウロの自宅に残し、一人で1週間の静かな休暇を楽しんでいる。仕事柄アフリカや南アメリカを始め数多くの国を訪問しており、豊富な知識と旺盛な語学力の持ち主。近くのレストランで昼食を取り、ビールを飲みながら3時間ほど四方山話。お互い暇なのでいい話し相手となっている。

2007/1/30/09:10JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
低気圧が相変わらず短周期でフォークランドの南を通過する予想に変わりはありません。
ほとんど2日おきです。これらの中から北上に最も有利な気圧配置を選ぶと、今のところ現地時間2/3早朝出港が良さそうです。まだ多少時間がありますので、今後の予想に注目していきます。
現地からのCD昨日届きました。地球の反対側はやはり遠い所ですね。

2007/1/31/09:05JST
<馬場社長から目黒さんへの気象情報>
現地時間2/2に低気圧が南を通過します。また2/4にも南を低気圧が通過しますが、今現在の予想では北への高波広域の広がりが少ないので、予定通り現地時間2/3早朝出港で準備願います。
出港後は西よりの風10m/s前後ですが、45Sまでは機帆走も考慮されて可能な限り北上してください。
その後は風の具合を見ながら北東へ。



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