1.ラゴス(ポルトガル)便り 2007年10月6日

予定通り10月5日12時10分発のエアフランスで成田発。成田までは、アルバトロスヨットクラブの斉藤健一さんに送ってもらう。航海中3度帰国しているが、いつも斉藤さんが見送り。数年前セイリングを再開して以降、彼には一方的にお世話になっている。彼は、地元我孫子で建設会社を経営する傍ら、アルバトロスヨットクラブの中心的な存在。元東海大ヨットクラブのキャップテン。学生時代は470で活躍。その後ハワイのケンウッドカップ等にも参加している。小生が我孫子手賀沼のアルバトロスヨットクラブでセイリングを始め、その後稲毛でレーザーを再開したのも、斉藤さんが切っ掛けを作ってくれた。

成田では一寸したハプニング。搭乗予定のエアフランスがダブルブッキングし、受付でミラノ経由アリタリア航空に乗り換えてもらえるかどうかを打診される。謝礼として¥2万5千円くれるという。いつも予期せぬ追加料金を払う事があっても、航空会社から謝礼をもらうのは初めて。気持ち良く先方の申し出でを受けたものの、暫くして、ビジネスクラスのキャンセルが出たのでビジネスクラスで予定通り出発してくださいとのこと。おかげで楽出来たが、パリーポルトガルの便が3時間遅れ、リスボンのホテルに着いたのは零時過ぎ。

翌朝8時40分の列車に乗り、午後1時無事ラゴス着。一ヶ月の間に、大分涼しくなり、夜は霧に閉ざされるようになった。一休みして、夕方からマリーナのスポーツバーでラグビーの世界選手権(ニュージランド対フランス)を観ながら本メールを打っている。

いつもの事だが時が過ぎるのは早い。記憶を頼りに、自分のメモを兼ねて、日本滞在中の主だった出来事を以下簡単に振り返ってみる。


 一人娘のボーイフレンドの両親と会う。これが今回帰国の一番大事なイベント。吉日を選んで入籍する事で全員一致。当人たちが冷静な割には、我々を含め双方の両親がむしろ緊張気味。


 アルバトロスヨットクラブのウエブサイトを管轄している佐々木さんを訪問。今後英文併記でログを掲載する旨依頼。


 学生時代のマージャン仲間とゴルフ。女房も参加し、家族サービスを兼ねる。


 刈谷(愛知県)の三河ヨットを訪ね、堀江先輩(社長)と修理の打ち合わせ。その後、ボヘミアンの渡邊船長が刈谷セーリングクラブの仲間を集めての歓迎会に参加。その日は渡邊さんのマンションで泊り。船長はハワイ、トリニダッドと激励に来て下さった。今度は、南太平洋の何処かでボヘミアンとランデブーの可能性も出てきた。もしも実現できたら素晴らしい。ワクワクする。


 年老いた母親に会いに一週間北海道の実家に帰省。ついでに高校時代の友人と久しぶりの渓流釣り。目的は岩魚とヤマベ。真新しい羆の足跡あり。熊に注意しながら、釣り過ぎないように気を使う。獲物は、焚き火で素焼きに。持参のおにぎりとビールがとても旨い。帰りは山奥の一軒家の秘湯。(別途北海道紀行参照)


 毎年提出する確定申告を半年遅れで提出。ついでに年金の申請も。


 30歳前後に勤めていた会社(出向)の仲間との懇親会。当時上司だった荻本さんとはニュージランドでもお会いでき、浅からぬ縁を感じている。参加してくれた当時の仲間の殆どは、現在上場企業の役員。中東の石油開発の現場で同じ釜の飯を食った仲間。それから30年経過した。変わらぬ友情、誇りにしている仲間達だ。


 航海中、医療アドバイサーを務めてくれた山下先生のお見舞い。彼は、学生時代日本一週した時の唯一のクルー。医者の不養生がたたり現療養中。快方に向かっている様子で一安心。ヨット部の後輩で山下先生の同期でもある、桜田先生が、同行。彼が、現在の医療アドバイサー。


 航路の打ち合わせと挨拶を兼ね、横浜桜木町の気象海洋社訪問。夕方から懇親会。設計者林健之輔先生が参加され当方感激。林さんはアメリカ杯ジャパンチャレンジのチーフデザイナーで国際的なヨットマン。他にステップマリーンの近藤さんや舵社の安藤さんも参加。遅くまで飲み明かし、馬場社長宅で泊まり。馬場さん今後とも宜しくお願い致します。

左から気象海洋 石井、気象海洋 馬場(正)、ヨット設計者 林賢之助、
DHARMA船長 目黒、気象海洋 山我、気象海洋 馬場(一)の皆さん

* 斉藤健一さんのアレンジで斉藤実さんと懇談。斉藤さんのヨットの経歴は数年前に出版された著書「弧闘」に詳しい。一昨年、世界一周無寄航を達成。それ以前に世界一周単独レースに3度参加。既に地球を7週し、ギネスブックに記録されている。現在東周りの無寄航世界一周を企画中。8度の単独世界一周は前人未踏。出航予定は来年9月。2年以上前にお会いした時も元気だったが、今回はそれ以上。70歳を過ぎてなお、心身ともに充実している。斉藤さんの熱気に圧倒される。自分の航海が予定通り進めば、「みなとみらい」で見送りできそうだ。

他にもお世話になった方々を訪ねたかったが時間切れ。来年帰国した時改めてお礼とご挨拶に伺います。

以上

 2.北海道渓流釣り紀行(2007年10月11日;ラゴスーポルトガルより)

生まれは東京新宿だが、子供の頃に北海道の大沼公園に移り住み高校までは、そこで育った。帰省するたびに、冬はスキー、夏は渓流釣りをしている。

今回8月21日から28日までの一週間帰省し、その間高校時代の友人と渓流釣りを楽しんだ。

スキーは物心ついた時から始めているが、渓流つりは全くの素人。いつもベテランの師匠と師範代の二人が同行してくれる。。何れも高校時代(函館中部高校)の同級生。

師匠は、時計/宝石商を営む佐竹さん。彼は子供の頃から父親に渓流釣りを仕込まれ、今でもこれを最高の生き甲斐としている。師範代は公務員の竹内さん。彼は、高校時代憧れの的だった250ccのホンダドリーム号を所有していたが、現在はアンチックとも見える50ccから750ccまでのバイクを数台もち、毎年関東近くまで一人でツーリングをしているライダー。又準指導員の資格を持つオールラウンドのベテランスキーヤーでもある。

通常は、他の釣り人が入る前に、夜明けとともに沢に入り、正午過ぎまで渓流を遡上しながら釣りをする。源流の近くで焚き火をし、釣ったばかりの岩魚や、ヤマベを焼き、これをつまみに、おにぎりほおばり、ビールを飲む。帰りは、沢を下るだけなので早いが、それでも2-3時間を要する。ある程度の体力が無ければ不可能な釣り行脚。渓流のスポットは熊の生息地なので、鈴や笛時には爆竹を鳴らしながら進むで結構にぎやか。

自分も含め、いずれの御仁も還暦を向かえており、今回は朝7時に集合し、沢に入ったのは2時間後の9時。師匠のデータベースには、素人でも必ず釣れる極秘のスポットが幾つかある。今回のスポットは、日本の清流ベスト?にはいるとっておきのスポット。幾つかある支流の何処に入るかが肝要。国道を1時間程走った後、車がやっと通り抜けられるような放牧地を暫く走って現地到着。

腰に護身用の鉈や鈴をつける。虫除けの長袖シャツは帽子は必需品。腰近くまである本流を渡り、川幅2−3mの支流に入る。感を取り戻すため、最初は師匠や師範代の後について釣り方を観察。川が平地を流れているときは、頭上に立ち木や枝が張っているので、素人がポイント対して、正確に釣り糸を繰り出すのは難しい。師匠や師範代は苦も無く、正確に糸を繰り出し、百発百中で獲物をあげる。小さい獲物はその場で放流するのが、釣り人のマナーだ。

餌はブドウ虫。以前使っていた餌より大きい。バイオ技術がここでも生かされている。師範代は、生餌を使わず疑似餌を使用。生餌だと釣りすぎてともすると乱獲となるので、疑似餌が最近の渓流釣り愛好家のマナーとなっている由。

平地から峡谷に差し掛かると、頭上の木や枝が無くなり、素人でも釣り易くなる。いよいよ自分の出番。目標20匹と師匠に告げられる。15cm以上の大型の獲物だけを残し、2時間で目標達成。

師匠の指示で渓流釣り開始              岩魚、引きが強い

途中小熊と親熊の真新しい足跡を発見(写真参照)。親熊は牛馬よりも遥かに大きそうだ。

熊の足跡、新しい!

川を遮る大小の朽木や、流石でせき止められた瀧を越えながら更に遡上。川幅1m、深さ10cm程の浅瀬で、70−80cmは有りそうな鱒が大きな背びれを空中に突き出し、産卵の準備をしている。直ぐ下流で数十匹の岩魚や、ヤマベが産卵直後のイクラにありつこうと待機している。始めてみる光景。手掴みできそうだが、師匠や師範代は、見つめているだけ。鱒を捕獲しようとの意図は全く無い。これも渓流釣りのマナーらしい。熊はこのような鱒を狙って川辺まで降りてきているような気がする。

焚き火が出来そうな空き地迄たどり着き、本日の釣りは終了。


釣果を楽しむ

師匠の指示に従い、火をおこし、焼き串となる笹を刈って食事の準備。この間、師匠は岩魚の刺身を作っている。彼によれば、刺身に出来るのは岩魚だけ。ヤマベには寄生虫がいるとのこと。渓流で冷やしたビールを飲みながら、刺身、串焼き等をつまみながらおにぎりを頬張る。

熊に食べ物を残さぬように、残した食べ物は持ち帰る。焚き火を綺麗に片付けて下山。途中一軒家の温泉で疲れを癒す。

天気にも恵まれ「長生きしていると良い事もある。」と実感できた一日でした。師匠と師範代に感謝。

以上

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