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2006年2月

2月19日オプアマリーナからワンガレイのリバーサイドマリーナへ移動
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whangarei map
DHARMA単独世界一周航海日誌   2006年2月             戻る

2月1日(水)
スチーブは40代の初め、所謂独身貴族で郊外の閑静な住宅地(Glenfield)に一軒家を構えている。自宅のオフィスで不動産売買の仕事をする傍ら会計士としてファミリーの仕事も手伝っている。弟のジョニーが日本に住んでおり彼の別荘が葉山に会ったことが山下院長との親交の切っ掛けになっているとの由。遅い朝食を済ませ、彼の車でヨット関連のショップやヤードを案内してもらう。
その後再び両親の家により一休みした後ウエストへブンマリーナの対岸にあるBAYSWATER MARINAで所有艇Tenacityを見る。丁寧に手入れしているのが良く解る。印象的な船だ。

夕方彼と別れ市内の中心部にあるオックスフォードプラザホテルに行く。ここに1月31日から2月6日まで荻本さんご夫婦とその仲間が投宿している。オプア入港の数日前、荻本さんから自宅を通じて連絡があった。アルバトロスのホームページでニュージランドに向かったことを知ったとの事。荻本さんは、自分が20代の後半から30代にかけて出向していた合同石油(株)の上司で当時アラビア石油(株)から出向しており、その後幾つかの子会社の社長を務め、現在大手商事会社の石油開発に関する技術顧問を務めている。

nakama nakama
オークランドであった元上司とその仲間

出航前に昔の仲間を集めて歓送会をしてくれた。今般東大応援部の仲間(ご夫婦4組)と避寒旅行にオークランドを訪問。約束の時間1800にロビーで皆さんに挨拶。仲間の一人渡邊さんは若いときご夫婦でオークランドに6年間赴任していたことがあり町の事情に詳しい。渡邊さんの案内で近くのイタリア料理店へ、ビールとワインと上等のシーフードチャウダー、新鮮なサラダとオイスターと一緒にグリルした上等のステーキ。ご馳走様。有難うございました。
食後タクシーを拾いスチーブの家へ戻る。

2月2日(木)
遅い朝食の後スチーブにホテルに送ってもらい再び荻本さん一行に合流。2台のレンタカーに分乗し夫々別行動。自分は荻本、渡邊ご夫妻と市内観光。渡邊さんがかつて住んでいた住宅街に向かう。かつての同僚でゴルフ仲間、現在も親交を結んでいる知人宅を訪問。お茶とケーキをご馳走になる。
昼食はパーネルストリートのイタリアレストラン。冷たいビールとワイン、ピザやパスタと並んで数種のシーフード。店の名前が「Not Only Pasta:ひょっとしたら間違っている可能性あり」。

見晴らしの良い「One Tree Hill」を始め幾つかの観光スポット巡りをし夕方ホテルに戻る。ここで皆さんに別れの挨拶。本当にお世話になりました。
ニュージランドが百数十年振りにアメリカンズカップを持ち帰る前のレースでデニスコナーのカタマランとニュージランドの挑戦艇が戦い、ルール上の是非を巡り法廷闘争にまで発展したことがある。この時ニュージランドは敗訴し、米国がカップを保持することになったがその時の挑戦艇「NZ−1:通称ビッグボート」の真っ白な巨体が海洋博物館の前に展示されている。
この前でスチーブと待ち合わせ。Takapunaの日本料理屋「大黒」に向かう。世話になったピーターとショーンを日本食に招待している。約束の7時きっかりに着いたがピーターとショーンは既に到着。スチーブが選んだ店だが紅花を模したパフォーマンス付きのアメりカンスタイルの鉄板焼き。皆喜んでくれたので正解。食後近くのパブでジントニックを数杯。今度はご馳走になる番だが既にしたたか酔っ払っており、よく覚えていないが12時前には帰宅。

2月3日(金)
この日スチーブは予定していた仕事があったようだがキャンセルして、帰途のバスの予約を取りオークランドタワーの下にあるバスターミナルまで送ってくれた。オプア行きのバスは一日3本。ワンガレイ(Whangarei)のホテル(Kingsgate Hotel)を予約し。14時20分のバスに乗りワンガレイ着は17時。ワンガレイの町は湾の入り口からワンガレイ川に沿って10海里遡った所にある。町の近くに大きな橋がありこの橋の袂がヨットハーバーになっている。
ここにも世界中のヨットが集まる。長期滞在のヨットも多そうだ。ニュージランドについてからどこでダーマを修理すべきか多くの人の参考意見を聞いたが、殆どがワンガレイが最適と答えている。バスターミナルから歩いて15分、ホテルはハーバーは見渡せるところにある。
遅い夕暮れ(9時過ぎまで明るい)を楽しみながらハーバーの近くを散歩し、川沿いの小さなレストランで夕食。

2月4日(土)
オークランド滞在中に調べたり紹介されたボートヤードを数箇所訪問。暫く歩いていないので朝10時から、夕方4時まで歩き続けた。必要な情報を集め、実地検証もしたので後はオプアに戻り、地元にヤードの話を聞いたうえで何処に落ち着くか決めることにする。夕方4時20分のバスに乗りオプア到着6時。テンダーをまだ降ろしていないのでポンツーンで声をかけダーマ迄送ってもらい無事到着。長い一週間でした。

2月6日(月)はワイタンギ(WAITANGI)の記念日で休暇。
ワイタンギは166年前(1840年)の今日先住民のオマリ族の族長と英国系移民との間で取り交わされた平和条約を意味する。オマリ族から見れば長い闘争に疲れ英国の植民地化を認めた日となる。ポリネシアでもそうだったが、欧州からの移民による圧迫と新たな疫病により現地民の人口は一時的に激減し、その後移民と同化しながらマイノリティとなっている。

ワンガレイのバスターミナルの側に荘重な作りのグランドホテルがありホテルの下がバーになっている。バックパッカー歓迎との看板を見て、滞在が長引いた場合のホテル候補として内部を見せてもらうことにした。レセプションに人の気配はなく、隣のバーがレセプションを兼ねていた。
部屋を見るためバーテンダー兼管理人から鍵を借りた部屋は入り口の階段を上がって直のところにあった。人が住んでいる気配はな、十数年全く手入れをしていないかのようで薄暗く、心なしかカビの匂いがした。バーに戻り改めてバーの内部を見渡すと、広いバーの入り口近くに10人ほど集まっておもいおもいにビールを飲んでいる。
欧米人とは明らかに異なった風貌で、マオリの人達と判断できる。町に着いたばかりで疲れていたせいもあり、鍵を返し戻ろうとすると、バーテン(管理人)が日本人かと聞き話しかけてきた。会話の一つに条約記念日があった。自分達は毎年抗議のデモをしている。おり月曜日がその記念日だという。その時はじめてワイタンギと言う言葉を知った。

日曜日にオプアに戻ったが、月曜日まで連休でこれといってすることもない。この近くに一軒だけあるレストランで遅い朝食を取りながら店においてある新聞のワイタンギ特集記事を時間(ビール3本とワイングラス一杯)をかけ隅々まで読んだ。ワイタンギに抗議デモが行われるようになったのはそれ程古くはないようだ。

ベトナム戦争に反対する抗議デモが世界中に広がった時の余韻の一つでもあり、伝統文化を守り維持しようとする流れの一つともいえる。ニュージランドは基本的に現在でも畜産を中心とすると農業国である。戦後の経済の復興は、日本が朝鮮動乱を切っ掛けに経済回復し、その後の団塊の世代が日本経済を牽引してきたことにも少し重なるところがある。
ワンガレイやオークランドの湾口に幾つかの砲台跡がある。太平洋戦争で英国支配のシンガポール陥落が、ニュージランドに相当のショックを与えたようだ。多くの若者が国を守るため連合国側に立ち参戦している。停戦後の兵士の帰還がベビーブーマーのトリガーとなっている。主要産業だった羊毛の価格下落、オイルショックからの立ち直りはベビーブーマーの成長と時期同じくしているように思われる。

レストランはフェリーターミナルに隣接している。新聞を読んでいると、近くで大きな掛け声が聞こえる。やがて停泊しているフェリーの陰から大型のカヌーが現れ10人程の漕ぎ手が大声で叫びながら通り過ぎていく。近くの人に聞くと記念日を祝って(celebrating)いるのだという。

2/9/10:10JST 目黒さんの近況について
<馬場社長からの情報>
昨日、今日と目黒さんから電話がありました。
PCがウイルスに感染し、現在使用不能です。多分日本に持ち帰っての修理となりそうです。
従って近況報告も日本語でのメール通信が出来ない状態です。
PCのトラブルを除いては順調です。御本人もお元気です。
陸上から英文メールを送ってこられる予定なので、受信次第皆様に配信させていただきます。

JST2月13日月0300(現地1900)
馬場様
オプアマリーナのPCを管理しているマイク(Mike Mr.Young)の努力でどうやらPCが復活しました。JCOMの方も部分的に使えるようになりました。
Back Up用のPCは依然使用不能です。以下2月7日以降の主な状況をお伝えします。

2月7日(火)
イリジュームを介してのメールの送受信が出来ず若干フラストレーションが溜る。気を取り直して別の頭痛の種、ウィンドベーンについて検討開始。
先日オークランド訪問時に買い求めた「The Windvaene Self−Steering Handbook:Pablished by McGrow−Hill、2004by William V.Morris」を読み始める。
今後の対策としてスペアを増やす。一ランク上のパワフルタイプに変える。ウインドベーンに連動させ省力・省電を図る。〜を適当に組み合わせる。が最も魅力的な解決案と考えているがそれには信頼できるウィンドベーンが不可欠。
手持ちのシステムを補強するか、別なシステムを導入するか更に検討中が必要。

夕方オークランまでフォースイレブンの回航に同行したジュリアと彼女の友人がスペアのオイルスキンを返しに来たので近くの町パイヒア(Paihia)で夕食。

2月8日(水)
パソコンにビールス進入の疑いがあり、マリーナのパソコンを管理しているマイクにチェックしてもらう。ここ数年スパム(不特定多数に送り込まれる歓迎されないメール)と一緒に送られてくるトロジャン(トロイの木馬)の侵入が判明。
この手口をフィッシング(Phishing)というそうだ。マイクが色々なAnti−Virus Softでビールス退治している間に突然PCの反応速度が遅くなる。実務的にほぼ使用不能。終日速度の遅いパソコンと睨めっこしながら、システムリカバリーソフト等トライしたが埒挙がらず。
この時点で気象海洋の馬場さんに電話で当面メールが使えなくなる旨連絡。夕方ダーマの修理が手間取った場合に備え、滞在期間の延長(本年6月末を10月末に延長)依頼をするため近くの町Kawakawaに住んでいるデボラ・ブラッドリー女史に電話相談。具体的な詰めをするため2月10日午後3時にオプアの税関事務所で女史と面談することになった。
あわせて実際より高く見積もりされた課税価格(滞在期間を超えた場合の追従金:船価の19%)の是正について話す予定。

2月9日(木)
壊れた2台のオートパイロットを近くのチャンドラー「Cater Marine」に持ち込み修理を依頼。あわせて一ランク上の機種の情報入手を依頼。
続いて保険会社「Marine Insurance」を訪ね保険の加入手続き。ニュージランドのマリーナに係留するためには適切な保険が不可欠。入港時に加入する必要があったが保険会社が休暇で閉鎖されていたため手続きが遅れていた。
一年間ニュージランドでのみ適用可能な保険がUS$600。保険会社のデイビッド・メイアと話をしているうちに彼がカナダで出会った大型スチールヨット「ビジョン」のケリーの実の兄であると判明。
彼より税関と関税価格の妥当性について話す前に、専門家に正確な評価をしても貰ったらどうか?とのアドバイスあり。デビッドに適当なサーベイヤーの紹介を依頼。その結果ダグ・シュマックが2月10日11時に來船しダーマの評価をすることのなった。
費用$120。

2月10日(金)
ダグがダーマのインスペクションに来るまで、ダーマの前に係留している英国籍の36ftヨット「Jill Diane」のオーナー夫妻(ビルとジル夫人)とヨット談義。彼らは6年前Norforkを出帆して航海を続けている。驚くべきことにその前は「アルバトロス」と言う名の34ft艇で17年間!!北米・南米をくまなく訪れている。
来年は東南アジア・台湾を経由して日本(沖縄ー横浜)まで行くという。出入港以外は殆ど帆走である年のディーゼル消費は僅か22リットルだったという。

ビル
英国人ビル、22年間航海継続中!

11時にダグが來船してダーマのインスペクション。彼の見積もりでダーマの現在価格はNZ$125,000となった。因みにそれまでの申告額はNZ220,000。新たな算定額に基づき税関宛てに資料を提出してもらうことになった。あわせて艇の補修に時間がかかること。現在の滞在リミット6月末は冬季に入り、ケープホーンに向かう時期としては不適切。滞在期間延長の必要性を記載してもらうことにした。
手紙は翌日受け取ることになったが、本日1500時税関(デボラ女史)との面談のため、彼の名刺の裏に算定価格を記入しサインしてもらう。

15時税関事務所でデボラ女子と面談。電話にてある程度理由を説明していたが、改めて滞在延長と船体価格の見積もり費用の変更要ありと説明。結果女史宛に滞在延長理由にダグ報告書を添付した手紙を出すことになった。女史は手紙を受領後1週間以内に、税関の記録を書き換え、滞在期間を11月末まで認める旨の正式書類をオプアマリーナ留めで送ってくれることになった。

2月11日(土)
朝9時大声で呼ばれたのでデッキに出るとダグがアメリカから持ち込んだ「ブリストルパイロットカッター:36ft」で評価報告書を届けに来た。$120払っただけあって簡潔だが心憎い程説得力のあるレポートとなっている。自分のPCは使えないのでマリーナのパソコンでデボラ女史宛て手紙を書く。
マリーナの職員に税関から手紙が届くので保管してもらうようよう依頼。

マイクよりキリキリにすんでいるITの専門家とメールと電話で解決策について話しあった。日曜日の朝再トライするとの話があった。大いに期待したいところ。
実際のところマイクは日本のパソコンの説明は日本語なので自分には扱いかねると言っれるのを断ってきた。自分が側で説明するからトライしてくれと頼んで不承不承付き合ってくれているのが実情。

夕食はビル&ジル夫妻に招待されたので冷えたビール持参で彼らの船でご馳走になる。南米特にチリ・アルゼンチンの航海(彼らはマゼラン海峡を通過:東から西に向かったので潮流がきつかったとのこと)について耳を傾ける。有意義な夜だった。

2月12日(日)
8時15分マリーナ事務所が空くのを待ってマイクと再トライ。セイフモードでマイクロソフトのANTISPYWAREをインストール。その後日本出国前にインストールし一年間アップデートしていなかったノートンを外したら元のスピードに戻る。
理由は良く解らぬが、数種のAnti−Virus ソフトが混在しお互いに干渉・抑制し合っていたらしい。マイクの友人アクセルが側にいてマイクとJCOMのメールについて(受け取れるが送ることが出来ない)を協議。
アクセルが送信サーバーのPINコードを調べ、更にセキュリティチェックを外したら送信できるようになった。目出度し、めでたし。
マイクにこの時点で費用を清算(NZ$25/時間)するように伝えたところ、実際に彼を拘束時間は8時間を越えていたにもかかわらず、2時間相当の費用を請求したので喜んで支払う。

11時気分が良くなった。毎週土曜日の午前中マリーナの裏で散髪の露天出張サービスがあり、ここで散髪。前回散髪したのは3ヶ月前、ライアテアでパスカルの奥さんキキがパスカルと二人岸壁に並べて丸刈りにしてもらって以来。
夕方ダーマの後ろに係留している緑色のスチールヨットのエドウィンをワイン持参で訪ねる。エドウィンは79歳のアメリカ人。オールドパーのパーおじさんを思わせる風貌。49歳で退職して、故郷のポートエンジェルスを出航、以来一人で世界中を廻っている。
一番気に入っているのはハワイ本島のヒロ。自分がカナダからハワイに向かう途中ポートエンジェルスに寄っているので話が合う。4月にヒロに向かって出航する予定とのこと。

2月13日(月)
そろそろ本格的に船の修理をしなければならない。これまで色々なセーラーと話した結果、ワンガレイで修理するのが最適との結論を得た。一時オプアで出来る範囲の修理をしようと思い数日前「リグ&スパー」のポールにブームのグースネック位置を高くする作業を依頼しており、今日作業をする予定になっていたがこれをキャンセル。
回航前に具体的な話を進めるため、明日は再度ワンガレイを訪問、ついでにオークランドで帰国の飛行機便の手配をすることにした。このため明日から3日間レンタカーを手配済。NZ$60/日。

今日はこれまで

2月17日(金)JST1000 現地時間同日1400 引き続きオプアに滞在。
早朝レンタカーでワンガレイ経由、オークランドへ。オークランドで2泊。昨日(12月16日)夕方オプアへ戻ったところ。ワンガレイでダーマの上架についてベイサイドドライブマリーナの経営者レイ・ロバーツと面談。上架時期を2月20日(月)から始まる週の前半とした。
ワンガレイはニュージランドで最も古い港の一つ。現在はヨットプレジャーボートのベースとなっている。ワンガレー湾の河口から10海里遡ったところに港(マリーナ)が点在しベイサイドマリーナは町の中心部まで歩いて15分程度。町から一番近く、これ以上遡れない橋桁の下流に大型のマリーナ(タウンベイスン)があるがそこには上架設備はなく、又人気スポットのため空もない。
ベイサイドマリーナを選んだ理由は町に近いだけでなくオークランドやオプアで出会った殆どのヨットマンや業者がレイ・ロバーツのヤードがベストとリコメンドしたため。

オークランドでは帰国のフライトの手配(3月10日刻成田着、4月20日夕刻成田発)やNZで使用する携帯電話(0064−27−353−5671)の購入等。ハワイで購入した携帯電話のSIMカードを取り替えるとニュージランドで使える可能性ありとのアドバイスがあり、このチェックのため購入を遅らせたが結局使用不可。

久しぶりに都会の空気を吸いながら目抜き通りのクイーン通りやホブソン通りをそぞろ歩き。ホブソンという通り名は、ビクトリア女王の命を受け入植者と現地民との闘争を鎮圧(1837年し)、その後英国を代表してワイタンギ条約に署名(1940年2月5日)したウイリアム・ホブソン船長(提督)に因んでいる。

ヨットマンのための観光の目玉は海岸通りにある国立海洋博物館。マオリの移住経路から始まり、大航海時代、アザラシ漁、捕鯨の繁栄期等がコンパクトにまとめてある。自分が最も引かれたのはなんといってもアメリカンカップに関する写真やディスプレイ。とりわけエベレスト初登頂を果たしたヒラリー卿以来の国民的英雄サー・ピーター・ブレイクの凄さに改めて感服する。  (サー・ピーター・ブレイク信託財団のホームページ
世界一周レース(ウィットブレッド)の優勝、ジュールベルヌトロフィで初めて80日を切る。アメリカンズカップのでの優勝。アメリカンズカップキャンペーン以後はクストウ(スキューバの発明者)財団の代表者に任命。

A-Cup
海洋博物館に展示されているアメリカズカップのレプリカ

その後地球温暖化と海洋汚染の調査に集中するためブレークエクスペディションを立ち上げる。2001年12月6日の夕刻、アマゾン川流域(サオ・パオロ市の上流1600海里)での調査中海賊に襲われ53歳にして死亡。ディスプレイでは、5歳でヨットを始めて以来、カラフルな人生絵巻の裏側にある多くの敗北とそこから学び、目的に向かって立ち上がる執念、類まれなシブトサについても簡潔に説明している。
今後暫くの間彼を越えるセーラーは現れないように思える。

帰りは予定よりも早くオプアについたので近くの町パイヒアとキリキリを探索。ドライブの途中、オプアから海岸沿いの遊歩道を2時間半歩いてたどり着けるパイヒアのすぐ先にワイタンギ条約が締結された場所、ワイタンギがあることが判明。

案内板 締結場所
講和条約記念地への案内板       条約締結場所

ワイタンギで一休み、条約が締結された丘やそれ以後建てられたマオリ族の集会場など観ながら過去の歴史に思いを馳せる。対岸2海里にラッセルの町が見える。この町もかってアザラシや捕鯨で最も栄えた港町だ。
条約締結前までは完全に無法化しマオリ族と移住民との絶え間ない抗争が続いていたという。移住民の多くが国を追われ、一攫千金を夢見た犯罪者集団だった事、マスカット銃の取引が始まった事なども激しい抗争に拍車をかけていたようだ。

ここに立ち寄ったビーグル号のダーウィンが太平洋の地獄の穴(Hell Hole in Pacific)と表現したとの記録も残っている。尚条約締結に際し、長い間現地に駐在し(条約前7年間)、マオリ族の気質、風俗、習慣を良く知っていたバスビー総督が条約を起草し、マオリ族の権利を移住民と対等としたことが条約を平和裏に締結できた原因となっている。

2月20日(月)JST1600(現地2100) 15:30オプアマリーナ出航、目的地ワンガレイまで80海里
場所:RIVERSIDE DRIVE MARINA in Whangarei (35°43.7′S−174°20.0′E)

2月19日(日)
1530オプアマリーナ出航。目的地ワンガレイまで80海里。ベイオブアイランドの入り口南端のブレット岬を1900に廻航。岬の突端とその先にあるピアス島の眺めは絶景。何れも切り立った断崖でその間の狭い海峡を通り抜けるために多くのヨットマンがこの地を訪れると言っても良いほど。

ピアス島
景勝ピアス島ベイオブアイランズ入り口

事実観光船ルートの目玉になっている。ピアス島は海食で島の真ん中がくり貫かれている。最新の大型スピードボートを改造した観光船はその中を通り抜けられるようにデザインされている。今回は夕日に染まるピアス島の写真を取るため島の外側を通る。


whangarei map
オプア、ワンガレイ、オークランド地図(リバーサイドマリーナのホームページより

向かい風7m/sで機走。風は日暮れと共に弱まったが、ニュージランドとポリネシアの間に大型の低気圧があり、その影響で大きなウネリが一晩中続いた。久しぶりの徹夜、0700、夜明けと共にワンガレイハーバーの入り口に到着。
丁度潮が干潮から満潮に転ずる時間でそのまま潮に乗り15海里先にあるリバーサイドマリーナを目指してワンガレイ河を遡上。町外れまで近づくと河川の両端に投錨しているヨットの数が次第に増えてくる。同時に川幅も狭くなり曲りくねっている。安全に通行できるように赤や緑の標識があるが、標識の間が曲りくねっているので、浅瀬があちこちにでき、安全に通れる川幅は数メートルのところもある。
深度計を見ながら速度を落として慎重に進むがついに浅瀬に乗り上げる。幸い河床が泥なので後進して直に脱出。先般訪問した数箇所のマリーナやボートヤードを通り越し、1130ベイサイドマリーナに到着。ここにはあまり広くはないが最も町に近いヤード。オークランドでもオプアでも殆どの人達がこのマリーを勧めてくれた。数ヶ月はここに落ち着くことになる。

リバーサイドマリーナ ダーマ
リバーサイドマリーナと舫うDHARMA

先日面談したマリーナのオーナー、レイ・ロバーツがポンツーンで待ち構えており、彼と共に事務所に向かう。係留心得を明記した契約書にサイン。早速レイは作業内容について打ち合わせようという。
実に有難いが、当方徹夜で眠いし、冷えたビールも飲みたいので打ち合わせを明朝に延期してもらう。一度決めると後に戻るのは難しいし、金もかかる。こちらも何をどうしてもらうか良く整理しておく必要がある。

町まで歩いて15分、JAPANESE FOOD−ASAHIと看板を掲げているレストランに入りビールを注文。看板は日本食だが経営者は韓国人のシンさん(通称スコット)。2月初旬オークランドの帰りにも寄ったが夕食時は満杯で席がなく、川沿いの別なレストランで食事をした。
翌日帰りがけ、既に昼食の時間は過ぎていたが気持ちよく招き入れてくれた。以来ここが気に入っている。

オプアの近くキリキリにすむ友人が町に日本食レストランが出来たという。3日前お世話になった人達とそこでお別れの宴を張った。ここでも偶然と世の中の狭さを痛感したが、その店は2ヶ月前開店したシンさんの出店で全く同じデザインの看板が出されていた。
食事をしているとシンさんが顔を出し、挨拶したあと忙しそうに奥のほうに消えて行った。間もなく日本酒の熱燗徳利をもって戻り、日本人はやはりお酒でしょう、お金は要りません、といってサービスしてくれた。ほろ酔い加減で船に戻り一眠りして起きたところ。

2月28日(火)JST0800(現地1200)24℃ 69% 1019mb
早朝から曇りがちだったが昼近くに雨が降ってきた。久しぶりの雨。リバーサイドマリーナに到着以来連日艇内を整理。偶々ヤード内に大型のコンテナがあり容積の半分相当を借りている。残りの半分をハワイからきたヨット(ナイア:NAI’A)が使用している。借り賃は$1/日。他のヤードではコンテナ一個$4/日で貸している。こちらに来る前までは中古の大型のバンを購入してその中に荷物をいれるつもりでいたが安上がりで助かる。90%程度の荷物をコンテナに移したら船の喫水が10cmぐらい上がった。よくもこれだけ積込んだものだと我ながら感心する。

平行してドジャーの上に乗せるプラスチックのドームの製造、その取り付けに伴うリグやセールの変更(ブーム位置を40cm高くする)等で色々な業者と打ち合わせをしている。一番時間がかかるのがウインドベーンの変更だが、これについては未だ調査中。世の中に10種類ほど出回っており、3機種まで絞ったが未決定。知り合いになったヨットマンや、業者を通して中古品の情報も収集中。

ワンガレイとオプアの中間にツツカカ(Tutukaka)マリーナがある。ワンガレイに到着して間もなく2月25日(土)にワンガレイからツツカカまでのヨットレースがあると聞いてヨットブローカーのアレックスに会い、参加の可能性を打診する。始めてワンガレイに来た時尋ねたヤードのオーナーがアレックスを紹介してくれた。彼はオーストリア人で現在の職に着くまでプロのセーラーとして15年間世界中のレースに(クルーとして)参加していたそうだ。オプアレガッタにも参加しており、ダーマの赤いハルと日章旗を覚えていた。その場で早速ベアエッセンシアル(Bare Essential)のオーナー、ボイド・スミスに電話しOKを貰う。条件はラム酒を1本持参すること。

という訳で土曜日はアレックスと共にベアエッセンシアル(57ft)でレースに参加。乗員は8名。ベアエッセンシャルは1987年のメルボルンー大阪のダブルハンドレースに参加するためニュージランドで建造した日本艇、旧名’ドクターライ’。購入後マストをカーボンに変えるなど徹底的に軽量化した船。レースは2組に別れ小型艇とクルーザークラスが10時スタート、その他の大型艇(36ft以上?)が20分遅れでスタート。

race start
レーススタート直後

コースは30マイル。参加艇は30艇。風が吹けば2時間強で間違いなくファーストフィニッシュできるとの事だったが、スタート直後から風が止まり、気まぐれなパフを拾いながら何とかトップをキープ。昼頃一時全くの無風状態。突然クルー全員が海に飛び込む。這い上がっては又飛び込む。何事かと思ってら、風を呼ぶためだという。そのためか風が少し安定してきた。10マイル先の岬を廻ったのが午後2時、小型艇の大部分を追い抜いたが、プロトタイプの小型艇との距離は変わらず。艇長のボイドがタイムリミット内でのフィニッシュは無理と判断しリタイヤ決定。船首をホームポートに向けるが30分後に安定したNE7m/sが吹き始める。残念無念、皆悔しそう。艇長のボイドも残念そう。

retired DNF
風が弱くリタイア決定、しかしその後順風が吹き始める、残念!

翌日聞いた話では、タイムリミット以内にフィニッシュした船は1艘のみ。賞品を独り占めしたそうだ。ベアエッセンシャルが完走していればおそらく優勝、悪くても2位だったのに。

毎週日曜日の夕方はヤード内でバーべキュウをする日となっている。隣に舫っているドイツ籍のシュランペ(Schlampe)のラルフ(Rulf)が料理を2人分用意して誘ってくれた。彼は12年前事業を売り払いカナダで50ftのケッチを手に入れ以後フレンチポリネシアやトンガを中心に一人旅を続けている。未だ50歳を越えたばかり。ヨットの生活も飽きてきたのでトンガをベースに新事業を考えているとの事。料理の腕前も一流。先日彼とスイス人シェフのいるオーストリア料理を食べに行ったがそこの料理より旨かった。バーべキュウには20人ほど参加、殆どがカップルで独り者はラルフと自分だけ。来週日曜日には何を作ろうかと頭を悩ませているところ。



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